Tへの手紙

 お久しぶり。グループのLINEで連絡をとってはいるけれど、一対一のやり取りはしていないからか、やはり「お久しぶり」という気がしてしまいます。

 2月に一冊の本を読みました。ちくま文庫の『傷を愛せるか 増補新版』という本で、著者の宮地尚子さんはカバーの略歴を引用すると「一橋大学大学院社会学研究科教授。専門は文化精神医学・医療人類学。精神科の医師として臨床をおこないつつ、トラウマやジェンダーの研究をつづけている」方だそうです。これだけの情報だと医学的な硬い内容を想像しそうだけれど、実際には平易な言葉で書かれたエッセイ集です。四部構成になっていて、「米国滞在記+α 二〇〇七―二〇〇八」と副題の付いた第二部「クロスする感性」を読んでいるあたりから、Tにこの本のことを伝えたいと思うようになりました。

 読み終えてから2か月以上が過ぎ、内容に関する記憶が怪しくなっている現在までこの手紙を書かなかったことにはいくつか理由があります。一つは、「ニューヨークで暮らす」という一点のみで安易にTとこの本を結び付けたと思われることへの躊躇。実際にそうなのかもしれないけれど、自分でもちょっと短絡的だなという印象を受けるので。それから、誰かに本をオススメするという行為を傲慢だと感じてしまうこと。人に薦められるぶんには何も感じないのに、自分が誰かに薦めるとなると「これを読みなさい、読むといいって、どの立場から言っているんだよ」と冷めた気持ちになり、手紙に書くことはできませんでした。本当は「読みなさい」というほどの強い働きかけではなくて、「こんな本を読んでさ、そのときにTのことを思い出したんだよ、なんとなく」というだけのことなのだけれど。直接会って話すならば、できたかもしれない。でも手紙ではそのニュアンスを伝えることができず、Tは「オススメされたから読まなきゃ」と思ってしまうかもしれないし、だからできなかった。

 中学のときのM子先生のことも思い出しました。M子先生はいわゆる名物教師で、生徒や保護者や教員に呆れられたり憎まれたりしながらも愛され一目置かれている存在だったけれど、私は彼女のことを好きでも嫌いでもありませんでした。Tもそうだったんじゃないかな。だけど今になっても思い出すことはいくつかあります。どんな言葉で表現していたかは忘れたけれど、たしか「本を読むことは友達が増えること」だと話していました。本を読むと、時代や地域を超えて、その著者と友達になれる。それなりに本を読むほうだった中学生の私はM子先生の言葉を全然受け入れられなかったけれど、今になると受け止め方が違います。

 いつからか私は本を読まないタイプの人間になりました。読みたい本はたくさんあるしその数は毎日増えていくのだけれど、実際には読まない。わざわざ本を読むための時間を設定しないといけないくらい、本を読むことから離れています。だけど『傷を愛せるか』はするすると読めました。電車に乗っているとき、ちょっと時間が空いた時にスタバで。読むぞ、と身構えることなくページを開く。これは読書というよりも、友達のおしゃべりを聞くのに近い感覚なのでした。そしてそれは、私がずっと求めていた心地よさでした。

 学生時代は時間が無尽蔵にあって、自分の時間にも人の時間にも無頓着でした。だからいつも友達と一緒にいて、だらだらと話したり聞いたりしていた。みんな大人になったので、そういう時間の使い方はできなくなりました。私は雑談に飢えていた。

 宮地さんは知的で、興味のある話も興味のない話もしてくれる。考え方のなかには私と異なるところもあって、すべてに納得できるわけではないけれど、でもそこもいい。そういう新しい友達ができました、とTに紹介したかったのです。

 ここまで書いてみましたが、やはりこの手紙は送りません。手紙もまた半ば強制的にTの時間を奪ってしまうものだから。私にとって友達の雑談は価千金だけれど、すべての人にとってそうというわけではないから。だからここに掲載します。かしこ。

(NZM)