Title04:妹(ドラミちゃん症候群)

※3年前に書いた文章を少し修正

 

Title04:妹(ドラミちゃん症候群)

 妹と言えばドラミちゃんの話。ドラミちゃんはとても優秀なロボットなのに、兄のドラえもんポンコツなのはどうして?という疑問に開発者の博士が答える回があった。その質問自体もひどいとは思うけど、理由はもっと容赦ない。

 

 ドラえもんとドラミちゃんは同じオイルを燃料(?)に動いているのだが、長いこと放置していたオイルは容器の中で分離していた。そして先に作られたドラえもんには軽くて薄い部分が、後に作られたドラミには重くて濃い部分が使われたので、性能に差がある、というわけ。なんだかこの解説は子供のころからずっと忘れられずにいる。あまりにも衝撃だったのもあるけれど、なんとなく自分に重ねてもいたからかもしれない。

 

 私にも妹がいる。オイルの濃い部分が当たった…かはわからないが、なんだか相当風変わりな人である。子供のころは両親までもが「宇宙人なんじゃないか」と冗談交じりに言っていたほどだ。そして我が家の宇宙人も長い人生の中で、徐々に地球的な社交術を身に着け、自分のやりたいことがスムーズにできるようになっていった。この過程は説明するととんでもなく長くなるので省くけど、ようは風変わりだった子が、ある程度要領よく生きられるようになっていったということである。もちろんそこには並々ならぬ苦労があったと思う。

 

 そしたら、だ。とんでもなく高性能な妹だったのである。自分の妹のことなのであんまり褒めるのもどうかと思うが、とにもかくにも頭がいい。行動力もある。要領もいい。社交性にも富んでいる。社会人となった今はバリバリに仕事をこなし、きちんと自分の夢をもって実現していっている。昨年結婚し、旦那様とも仲睦まじく、友人関係も広い。

 姉が言うのもなんだけど、なんて素敵な女性なんだろうと思ってしまう。しかも、私はそれが手放しで天から与えられたものじゃないということも知っている。血のにじむ努力の末に今の妹があるのだ。だからこそ、よけいに素敵だなと思っている。

 

 私はそんな妹がかわいくてしかたない姉バカなんだけれども、いっぽうで拗ねた自分もいる。自分はオイルの薄いほうだったんじゃないかと、ついつい考えてしまう。何をとっても敵うまいと。

 

 嘘のような本当の話だけど、めったに合わない親戚や、父の友人によく妹と間違えられる。「〇〇な方の子?」と。だいたい「それは妹です。私は姉です」と答えるのがいつも。つまり、いわゆる「じゃない方」なのだ。これ、本当に何度もある。気にしても仕方がないと思いつつ、なんとなく面白くないのも仕方がない。この辺の折り合いは本当に難しい。

 

 たとえオイルの薄いほうだって、のび太の相棒はドラえもんに違いなくて、あの国民的漫画の主人公である。自分の人生の主役は自分しかいないのだから、人と比べても仕方ないと思いつつ、やっぱりここぞという時に出てくるドラミちゃんでありたかったとも思ってしまう。私はたぶん当分このドラミちゃん症候群に悩まされるんだと思う。もちろんドラミちゃんは何も悪くない。(ドラえもんだって悪くない)

 

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3年前の文章だけど、今もまあ私はだいたいこんな気持ちだ

このころよりは少しだけ、気にしないようにできているかもしれないけど

ちなみに妹とは相思相愛なので、何かと二人で出かけたりご飯食べにいったりしている

二人でいるときは最高に楽しいし、引け目を感じることもない

こういう気持ちが出てくるのは第三者がいるときだけなのだ

不思議でやっかいなものだね

(まれ子)

 

新発見、壮大なストーリー、あなたに伝えたいこと、この文章が書かれた意義

2023年6月の記録
6月1日(木)◆WEB連載の小説を1回分読む仕事。昨日から英語文法の参考書を読み始めた。夕飯をつくりながら空き時間にちびちび『現代短歌パスポート シュガーしらしら号』を読む。4人目まで読んだ。今のところよくわからない。
6月2日(金)◆中編3本収録のホラー小説集を1冊読む仕事。2回読んだ。読んでみたかったけど一度も読んだことがない作家さん。書いている本人は楽しいだろうな、資料集めたり頭の中でいろいろ組み立てたり。最後の話は今までに聞いたことのない考え方ですこしじんとした。
6月3日(土)◆休み。半日、頭痛と寝て過ごしたあとに外出。急行1駅分の読書のみ。『数学的な宇宙』数ページ。
6月4日(日)◆英語文法の参考書を進める。なかなか進まない。五味太郎の『さる・るるる・る』『さる・るるる one more』『さる・るるる』『ばく・くくく』を読む。『ばく・くくく』はちょっと大人向け。
6月5日(月)◆日本史の調べ物をする仕事。高校生の時使っていたような図説を読む。要点だけが簡潔にまとまっていて、わかりやすい。『現代短歌パスポート シュガーしらしら号』を読み終えた。
6月6日(火)◆城についての文章を読む仕事と、図鑑で家畜について調べる仕事。『数学的な宇宙』数ページ。
6月7日(水)◆紙の図鑑とオンラインの辞書や辞典をたくさん使う仕事。本を読む時間はどこにもなかった。
6月8日(木)◆図鑑で調べものをする仕事。英文法の勉強を少しだけする。
6月9日(金)◆図鑑で調べる仕事と、新連載のエッセイを読む仕事。本はずっと読んでいない。
6月10日(土)◆休み。川名潤装丁事務所から『出版とデザインの26時』『出版とデザインの27時』が届いたのでまずは『26時』をペラペラと読む。べらぼうに面白い。
6月11日(日)◆休み。何も読めなかった。
6月12日(月)◆今日からしばらく動物についての本を読む仕事。英語の短篇小説を1本プリントアウトして、1行だけ読む。
6月13日(火)◆動物についての本を読む仕事。実態に即すと、pdfファイルとExcelの表をひたすら往復する仕事。
6月14日(水)◆動物についての本を読む仕事。資料として使っている動物図鑑は、家にあるものに比べて文字量が少ないからか読みやすい。でも絵が好みでない。
6月15日(木)◆動物についての本を読む仕事。夜、友だち親子と食事。
6月16日(金)◆数学の教科書を読む仕事。仕事後、電車に乗って食事。行き帰りの車内で『出版とデザインの26時』。
6月17日(土)◆休み。本を読む時間はなかった。ジグソーパズルをやっていた。
6月18日(日)◆休み。電車移動時『数学的な宇宙』数ページ。夜、『たくさんのふしぎ 沈没船はタイムカプセル』。これは良書。
6月19日(月)◆動物についての文章を読む仕事。この日に本を読んだかは覚えていない。
6月20日(火)◆休み。スカイツリータウンへ向かう電車内で『数学的な宇宙』数ページ。
6月21日(水)◆数学の教科書の仕事に戻る。腰痛も戻ってきた気配。
6月22日(木)◆数学の教科書を読む仕事。ひたすら計算ミスがないかを確かめる。夜にお酒を飲んだので本は読めなかった。
6月23日(金)◆幼なじみが海外で元気に出産したという最高の知らせを受け取る。『出版とデザインの26時』を読もうと開いたらテイクアウトができあがった。数学の教科書を読む仕事。
6月24日(土)◆休み。体調不良でつぶれる。『イラストで見るゴーストの歴史』をちらちら読む。
6月25日(日)◆休み。体調不良だが公園でずっと立っていたので、腰が悪化。また『イラストで見るゴーストの歴史』をちらちら読む。日本の話題がやはり目につく。文章はもうちょっとなんとかならなかったのだろうか。
6月26日(月)◆腰痛が完全に帰ってきた。脚も痛くて仕事にも支障をきたす。鼻水とのどの痛み、頭痛もひどい。耳鼻科に用事があったのでついでに診てもらい薬を手に入れる。数学の教科書を読む仕事。
6月27日(火)◆数学の教科書を読む仕事。数学的な用語やお作法を意外と忘れている。薬が効いて風邪の諸症状はやわらいだ。腰は痛い。
6月28日(水)◆数学の教科書を読む仕事。腰の痛さが増している。本は読めない。
6月29日(木)◆数学の教科書を読む仕事。平面図形に関しては感覚が鈍っているようで、ときどき立ち止まる。腰が痛すぎて、たまに横になったりしている。
6月30日(金)◆腰がいよいよ限界なので明日の診察を予約する。数学の教科書を読む仕事。この仕事をするようになってから独り言が激増している。ずっと内容確認の工程を口に出しながらやっている。指さし確認のようなもの。周りに人がいる環境ではできないことである。

日記を書きたいという気持ちはいつもある。その日に起きた特別な出来事や、記録に残しておきたいこと、それに関する自分の感情、などを書こうとするとうまくいかない。まずは簡単な記録から始めようと、その日の仕事の記録・それ以外に読んだものの記録をつけることにして一カ月やってみた。「読んだものの記録」は「読まなかったという記録」になり、全体は腰痛日記へと変化しようとしている。

(NZM)

Title03:白

※三年前に書いた文章を少し修正

 

Title03:白

ある日の猫と犬の会話

 

「考えすぎじゃないかなぁ」

「いいや、そんなことないね。絶対に深い意味があるんだよ」

「だって君って犬にしちゃ白すぎるぐらい白いだろ。だからシロって名前にするのは普通のことじゃないかな」

「そうかもしれないけど、白ってのはそれ自体が意味をもつ言葉だよ」

「例えば?」

「なんというか、白というだけで潔白とか清廉とかそういう意味がつくだろ」

「まあねえ」

「何物にも交わらない色としての宿命というか、汚れなきイメージというか」

「そうねえ」

「だからね、僕の名前は深い深い意味がある。つまりそのイメージに恥じない存在であれという」

「それはそれでいいけどね。そんなにプレッシャーに感じるなら、考えなくてもいいんじゃないかな」

「いや、僕は常に清廉潔白な心を持って生きていくべきだ。この名前をもらったからには。でも確かにそれはとても重い宿命だよ」

「やっぱり考えすぎだと思うけどな」

「医者は白い服を着る、死者も、神も、天使もだ」

「そうまで言うならだよ、2丁目のクロはどう?同じことを考えて生きてると思う?」

「黒ね。黒もまあまあ意味深な色だよね。でも白ほどではないよ」

「そう?」

「そうだよ。黒という言葉には色の名前以上の意味はないよ。白とは違ってね。ただイメージがあるだけ。しかもそのイメージというのは、白の反対としてのイメージなんだよ。まず白があって、黒のイメージができあがる。その黒に特別な意味を感じるというのは、それこそ考えすぎだよ」

「ふん」

「ともかくね、僕は畏れ多くもこの白という名前をもらったわけだ。だから何としてもその名に恥じぬ生き方をしなければならない」

「君がそう思うことは自由だよ」

「僕は自由だけど僕の名前からは自由になれない」

「ううん、ねえ」

「なんだい」

「君の清廉な名前についてはよくわかったけど、僕の名前についてはどう思う。タマという名前については」

「すごくよい名前だと思う」

「それはまたなんで」

「覚えやすくて呼びやすければそれでいいんだよ」

「ああそう。それじゃ君の名前もとてもいい名前だね」

「ありがとう」

 

ここでその日の二匹の会話は終わった。

 

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少しだけ文体が気に入らなかったところを直した。

これは「白」というお題からただ思いついた文章を書いたんだったと思う。

二匹とか二人がとりとめのない会話をしているというシチュエーションが好きです

(まれ子)

Title02:さくらの花

※3年前の文章に少し追記

Title02:さくらの花

 

 誰もいない公園で、さくらの花が咲き誇っていた。まさに満開で、微かな風にそよいでいる。時折ハラハラと花びらが舞い落ちては、池の水面を彩った。その池をゆっくりと横切る二羽の鴨。水の揺れにあわせて光がキラキラと反射する。

 

 あたりは静かで、聞こえるのは草木を揺らす風の音と、時折池で魚の跳ねる音、どこかにいるらしい小鳥達の囀り。そんな音がくっきりと聞こえるほど安らかな午後の時間である。

 

 さくらの木を下から望めば、花の合間からは真っ青な空がのぞく。とても小さいけれど何よりも青く見える空だ。

 

 今年も春がやってきたようだった。

 たとえそこに人間が一人もいなくなっても。

 

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追記

コロナ禍で桜は満開でも町に人がいなかった頃に、このまま人間が全滅しても自然は変わらずに続いていくのかなって思って書いた文章。

実際は桜は人の手入れが必要な生き物なので、変わらないということはないと思うけど、観に来る人がいなくても桜は満開になるし、美しさもそこにあるんだなという感覚を残しておきたくて書いたおぼえ。

そういう「気持ち」が言いたいことだけど、できるだけ情景だけを書いて表現しようとしている、、、気がする(覚えてないけど、この文章を読む限りそうっぽい)

 

Tへの手紙

 お久しぶり。グループのLINEで連絡をとってはいるけれど、一対一のやり取りはしていないからか、やはり「お久しぶり」という気がしてしまいます。

 2月に一冊の本を読みました。ちくま文庫の『傷を愛せるか 増補新版』という本で、著者の宮地尚子さんはカバーの略歴を引用すると「一橋大学大学院社会学研究科教授。専門は文化精神医学・医療人類学。精神科の医師として臨床をおこないつつ、トラウマやジェンダーの研究をつづけている」方だそうです。これだけの情報だと医学的な硬い内容を想像しそうだけれど、実際には平易な言葉で書かれたエッセイ集です。四部構成になっていて、「米国滞在記+α 二〇〇七―二〇〇八」と副題の付いた第二部「クロスする感性」を読んでいるあたりから、Tにこの本のことを伝えたいと思うようになりました。

 読み終えてから2か月以上が過ぎ、内容に関する記憶が怪しくなっている現在までこの手紙を書かなかったことにはいくつか理由があります。一つは、「ニューヨークで暮らす」という一点のみで安易にTとこの本を結び付けたと思われることへの躊躇。実際にそうなのかもしれないけれど、自分でもちょっと短絡的だなという印象を受けるので。それから、誰かに本をオススメするという行為を傲慢だと感じてしまうこと。人に薦められるぶんには何も感じないのに、自分が誰かに薦めるとなると「これを読みなさい、読むといいって、どの立場から言っているんだよ」と冷めた気持ちになり、手紙に書くことはできませんでした。本当は「読みなさい」というほどの強い働きかけではなくて、「こんな本を読んでさ、そのときにTのことを思い出したんだよ、なんとなく」というだけのことなのだけれど。直接会って話すならば、できたかもしれない。でも手紙ではそのニュアンスを伝えることができず、Tは「オススメされたから読まなきゃ」と思ってしまうかもしれないし、だからできなかった。

 中学のときのM子先生のことも思い出しました。M子先生はいわゆる名物教師で、生徒や保護者や教員に呆れられたり憎まれたりしながらも愛され一目置かれている存在だったけれど、私は彼女のことを好きでも嫌いでもありませんでした。Tもそうだったんじゃないかな。だけど今になっても思い出すことはいくつかあります。どんな言葉で表現していたかは忘れたけれど、たしか「本を読むことは友達が増えること」だと話していました。本を読むと、時代や地域を超えて、その著者と友達になれる。それなりに本を読むほうだった中学生の私はM子先生の言葉を全然受け入れられなかったけれど、今になると受け止め方が違います。

 いつからか私は本を読まないタイプの人間になりました。読みたい本はたくさんあるしその数は毎日増えていくのだけれど、実際には読まない。わざわざ本を読むための時間を設定しないといけないくらい、本を読むことから離れています。だけど『傷を愛せるか』はするすると読めました。電車に乗っているとき、ちょっと時間が空いた時にスタバで。読むぞ、と身構えることなくページを開く。これは読書というよりも、友達のおしゃべりを聞くのに近い感覚なのでした。そしてそれは、私がずっと求めていた心地よさでした。

 学生時代は時間が無尽蔵にあって、自分の時間にも人の時間にも無頓着でした。だからいつも友達と一緒にいて、だらだらと話したり聞いたりしていた。みんな大人になったので、そういう時間の使い方はできなくなりました。私は雑談に飢えていた。

 宮地さんは知的で、興味のある話も興味のない話もしてくれる。考え方のなかには私と異なるところもあって、すべてに納得できるわけではないけれど、でもそこもいい。そういう新しい友達ができました、とTに紹介したかったのです。

 ここまで書いてみましたが、やはりこの手紙は送りません。手紙もまた半ば強制的にTの時間を奪ってしまうものだから。私にとって友達の雑談は価千金だけれど、すべての人にとってそうというわけではないから。だからここに掲載します。かしこ。

(NZM)

Title01:雪

※3年前の文章の修正版

Title01:雪

  東京に住んでいると、冬に雪は降ったり降らなかったりするものだが、今年の雪は3月も末、29日に降った。暖冬が続き、スキー場でも雪不足と言っていた中、東京ではすでに桜が見ごろを迎えた中での雪だった。

 

 この日は高校時代の友人が結婚式を挙げる日でもあった。雪の予報を聞いたときは「何もこんな時に」と少し残念に思ったのだが、当日になるとその気持ちは変わった。式場の和風の庭園に降りしきる雪は、思いのほか綺麗だったからだ。流れ落ちる滝に雪がちらつき、凍てつく寒さを表していたが、いかにも日本の冬景色だった。新婦は白無垢姿であらわれて、それもまた雪景色によく映えた。

 

 式場に向かう道中は桜も咲いていて、そこに雪が降っているのも珍しい景色だった。同じものを前にもみた気がする。もうだいぶ昔、たしか高校生の頃、学校の校庭に桜が咲いていて、雪が降った日があったのだった。桜吹雪の季節に雪が舞っていて美しかった。ちょうど新婦と過ごした高校時代と同じ景色を見ることになったのもめぐり合わせなのかもしれない。

 

 もちろんこの日は厳しい寒さだったが、季節の入り交じった不可思議な情景と、温かな結婚式が、すごく特別な日として記憶された。雪の結婚式もいいものだった。

 

 その日、帰り道にネット上の記事で、千鳥ヶ淵の桜に降り注ぐ雪の写真を見た。それも本当に幻想的な風景だった。後日行ってもこの光景は見られないけれど、それでもこの桜を見たくなり、咲いているうちに千鳥ヶ淵を訪ねることを心に決めた。ともかく2020年の3月29日はそのぐらい美しい日だった。

 

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2020年のこの日のことは本当によく覚えてる。

電車も遅れたり止まったりで大変な一日だったけど、春の雪は美しい。

そもそも私は雪が好きだ。

春の雪以外にも人生で出会った雪景色を色々記憶している。

さいころ舞い降りてくる雪を見上げながら歩いていたら足を滑らせて尻もちをついたことも痛みとともに記憶しているし、友人といった露天風呂に降っていた雪も。

碌に滑れないのに毎年のようにゲレンデに行くのも雪を見るためみたいなところがある。

冬は雪景色アルバムが増えるかもと考えるだけで楽しみな季節だ。

(まれ子)

名前をあつめる

 Joan Miróは「ホアン・ミロ」と呼ばれることを拒んだ。彼のことをホアンと呼んではならない。ジュアン・ミロが彼の名前だ。

 ミロはバルセロナで生まれた。一般的にはシュルレアリスムを代表する画家と言われる。文字や記号に近いイメージを描き「天真爛漫」とも表現される作風で知られる。代表作としてガッシュの連作《星座》がある。やわらかい多色の靄のような地の上に、細く明瞭な黒の線と濃い色の面が踊る。

 スペインは現在、17の自治州によって構成される。バルセロナカタルーニャ州に含まれる。カタルーニャ人はカタルーニャ王国時代に培われた固有の文化と、彼らの言語カタルーニャ語によって、スペイン主要部とされるカスティーリャから文化的に独立している。

 カタルーニャが現在のような自治を獲得したのは、スペインで新憲法が制定された1978年。だがこれより古く1932年にもカタルーニャ自治権を得ているはずである。この間には何があったか。

 1936年、ファシズムの擡頭に抵抗するスペイン人民戦線政府と、それに反発する軍部との間にスペイン内戦が発生した。軍事蜂起の指揮を執るひとりであったフランコは国家首長に選ばれ、1939年に内戦が終結する。ここから彼の死去する1975年までフランコ独裁政権がつづく。内戦中カタルーニャは人民戦線派の拠点であり、フランコ軍に最後まで抵抗した。フランコ政権によってカタルーニャ自治権は剝奪され、カタルーニャ語も禁じられた。

 言語への支配は個人の名前にまで及び、カタルーニャ式からカスティーリャ式へと変更を強制された。このとき、カタルーニャで暮らすシャビエーはハビエルに、ジョルディはホルヘに、そしてジュアンはホアンに改名させられた。ミロは46年間ジュアンとして生きてきた人生を途中で奪われ、ホアンという名を押し付けられた。

 ミロは「ホアン」という名前を受け入れなかった。だから私は決して「ホアン・ミロ」とは呼ばない。彼の名前はジュアンだ。

(NZM)